空白

恋人と会っていた。 その日のために業務をこなす日々だった。
急いで定時で上がってバスに乗らなくちゃいけなかった。

会社の女性が車で駅まで送ってくれた。
通り道なので、気にしないでください、と親切にいう。
たくさんお礼を言ったらきれいな肌で涙袋をぷっくりさせて笑う。
私は彼女が苦手だ。どうでもいいこと(本当はどうでもよくないまあまあ重要なこと)に鋭くきがついて仕事を増やすから。

このバスにこの電車に乗らなくちゃいけないこともうもないのだ。
苦手な人からの親切な思いやりに恐縮するのももうおしまいなのだ。

電車でもの言わぬ壺の話を読む、語り口が私には合わなかった。
マスクをしたサラリーマンが前に座って大きな口でおにぎりを食べていた。
マスクの下の口がたいそう大きくて気持ち悪いと思った。

9時に彼の家の最寄りについたら車で迎えにきてくれていた。
久しぶりにあったときの第一声や声のトーンにはいつも迷う。
徳島から届いたお酒を飲んで野球を見ながら夕食、食事のペースが同じ人は安心する。
隣で眠りセックスする、生理が終わったばかりでうまくいかなくてシーツを汚さないかだけ心配だった、彼は何も気づいてない、それとも気づいたのだろうか。シーツは汚れなかった。

朝起きてお蕎麦を食べて工芸展をみにいく。巣鴨のお蕎麦やさんで昼から日本酒を飲んだ。
ぐい呑みを選ばせてくれる蕎麦屋。2人で7千円。いい気分だった。
彼はそういうお店をたくさん知っているしその金額が平気の人種なのだ。私にはできないこと、手の届かないことがなんでもできる。
小山冨士夫のぐい呑みの話をして読んでる本の話をした。

都電に乗ったことがないといったら、都電に乗るルートを選んでくれた。
私は彼のそういうところが好きだ。電車の乗り換えが頭にはいっていて、どこからでもどこにでもいける。
私が路線図を好きなのを知っている。
彼は私の好きなことを貶さないし私自身を変えようとしない。
髪の毛の色や長さやメイク、着る服、私の好きなものや好きなことに口を出さない。
私が歩道橋やジャンクションが好きと言ってもバカにしない。
大人でスマートで、いろんなことを知っている。

夜は彼が行きたいといったイタリアンにいった。いつも混んでいて入れないのだという。親しみやすい大衆のレストラン。
気取った店も気取らない店も、なんでも知ってる。

まだ酔ってないといったけど昼から日本酒をのんでワインのディナー、酔わないはずがない。
2軒目で店員さんに絡む私をみてどんなふうに思っただろう。
絵本をメニューに改造している日本酒のバー。ここも彼と来たのは2回目。
"大人だって絵本読みたいし読み聞かせてほしいんだよ"
そう言ってバカみたいに手当たり次第に絵本を読んだ。
私は子供にしか許されないことがとても羨ましい。
小学生しか参加できないプログラムに私だって参加したいしお子様ランチを食べたい、絵本だってよんでほしい。

帰りの電車代のチャージがないといってチャージをしたけど、彼はタクシーに乗ってくれた。
タクシーを使ってくれるところも好きだ。
歓楽街をぬけていく。
"キャバクラに行ったことがある?"
ーあるよ。お金払っているのにこっちが盛り上げなくちゃいけなくなったときなんでこんな思いしなきゃいけないんだと思って帰った。
そんなふうに言った気がする。お金払ってもないし面白いこと言えるわけじゃない私にはどんな気持ちで接しているんだろう。

彼はお風呂に入らないで布団に入ることを許してくれない。
どんなに酔っ払っても。
私が酔ってわんわん泣いてもシャワーしないと許してくれない。
もうベッドに入りたいのに怒られるから彼の足を噛んだ。引っ掻いたのかも。痛くしてごめん。
私は酔ってバカになって醜態を晒す。
シャワーでゲーして一緒のお布団に入るのが申し訳なくて床で寝てたらお布団に入れてくれた。
背中合わせで寝て明日の朝ごめんねを言うタイミングを考えて眠った。

起きてごめんねをしたら、うん、とだけ言って抱きしめた。
酔って泣いたのは2回目。
去年の夏、昔別れた男から連絡があったとき。
それでも昔のことは掘り返さないでうん、とだけ言ってくれる。
もう起きなきゃと思ったけどセックスした。
私は彼が気持ちいいのかよくわからない。最後までいったかいつもわからない。

"行く予定だったところ、いけなくなっちゃったね。でもここはいつでも行けるから。"
いつでも行ける、私たちこの先ずっと一緒にいるから、という意味を込めていったけど、きっと伝わってはいない。

もうひとつ計画していた予約していた見学会に向かう、平日でないといけない場所。
彼はそういうところをたくさん知ってる。
興味があるところが私と似ている。
それはとてもありがたいことだ。

国道を通るたび、元アルペン探しごっこをする。
それに付き合ってくれる、やさしい人。
運転が穏やかだ。いつも安全。疲れたって言わない、私が眠たくなっても許してくれる。
助手席で隣同士に座ると言わなきゃいけないことがいつもよりちょっとだけ言える気がする。
"老後の夢ってある?"
ーないかも、でもお金に心配しないで暮らしたいよね。

だけど結婚の話や将来の話は一度もしたことがなかった。
ベッドでふたりでいるとき、いま、何考えてるの、そう聞きたかった。
結婚って、どう思う?いつも彼の考えてることを知りたいけどなにも聞けない。

ラジオは表の顔、裏の顔、というテーマで話していた。
私はこんなブログでこんなふうなこと書くひとだけど、彼にとってはどんな存在に見えてるだろう。

途中焼肉屋さんに入った。ここも2回目。
程よい疲れのときは焼肉を食べたくなるらしい。
メニューをいい具合にみんな選んでくれる彼が好きだ。

"振られたこと、ある?振ったことは?"
いままで私たちはお互いの過去の恋愛についてもふたりの将来についても話したことがなかった。勇気を出して聞いたのがこんな質問、沈黙。
ーあるよ。
"どんな理由で?"
ー合わなくなったとき。お互いに合わせていた部分が時間が経つにつれ徐々に合わなくなっていったから。
"じゃあ、長く一緒にいたんだね。"
彼はなにも言わなかった。
彼は私よりもずいぶん年が上だ。
この歳で独身なんてなにかあるに違いない、みんなそう言うし、私もそう思った。
長く一緒にいて、ふたりの間には、どんなことがあったんだろう。
私もついに合わないと思われるときがくるのだろうか。
まだ私は品定めされている途中なんだろうか。
出会ったときから一年がたったけどなにもまだわからない。
いろいろ知りたいけど、なにも知らない。

今度はそちらの番、とでも言うように同じ質問をされた。
"振られてばっかりだよ"
"あなたとは結婚できない、と言われて振られた"

沈黙。そうだよね。それでおしまい。もっと話したかった。その続きを、でも聞きたがっている様子はまったくなかった。
頼んだ牛の生ハムは苦手な味だった。ひと切れ食べてしばらくしたら、付け合せを食べなよ、と言われた。
美味しくないとか苦手な味だなんて一言も言わなかったけれど、彼にはそれがわかっていた。
"私、顔に出やすい?"
ーそうじゃないけど、美味しかったら美味しいって箸がすすむひとだから。
私のこと、なんでもわかっているみたい、でも私のなにを知ってるのだろう。

引っ越して環境が変わることばかり考えてる。きっといい方向に進むはず。
履歴書を送ったところから面接の案内が来た。
お世話になった先生から本が届いた。

明日からもがんばらないといけない。